掲示板
 
アウシュヴィッツ強制収容所歴史年表
 
罫線

1919/6/28
ドイツ、第一次世界大戦敗北。
フランス、ヴェルサイユ宮殿鏡の間で「ヴェルサイユ条約」調印。

1920/2/24
ドイツ、国家社会主義ドイツ労働者党(N.A.S.D.A.P)が第一回の
公開集会開催。アドルフ・ヒトラー、国家社会主義的な「二十五ヵ条綱領」発表。

1923/11/8
ドイツ、N.A.S.D.A.Pによるミュンヘン一揆が発生。だが軍、及び州政府の支持が得られず、翌日鎮圧され、ヒトラーは投獄された。

1925/7/18
ドイツ、我が闘争第一巻刊行。

1925/9/21
ドイツ、N.A.S.D.A.PがSS(Schutz Staffel、親衛隊)を設立。

1929/10/24
米国、ニューヨーク株式取引所大暴落。暗黒の木曜日、世界恐慌が 始まる。ドイツ、国内において600万人の失業者があふれる。

1933/1/30
ドイツ、シュライヒャー内閣前日に総辞職。保守党との連立政権によりヒトラー内閣発足。N.A.S.D.A.Pは962年〜1806年までの神聖ローマ帝国を第一帝国、1867年〜1918年までのビスマルクのドイツ帝国を 第二帝国とし、1933年以降のヒトラー政権を第三帝国と称した。

1933/3/18
ドイツ、ヒトラー、SS中将ヨーゼフ・ディートリッヒに命じて特別衛兵隊組織を創設(後の武装親衛隊)。

1933/3/22
ドイツ、ハインリンヒ・ヒムラー、ミュンヘン近郊のダッハウに政治犯の再教育施設として、最初の強制収容所(KZ)を設置。所長はテオドール・アイケ(六月二十二日にSS准将に任命)。
45年までに約七万人を処理した。

1933/4/26
ドイツ、ヘルマン・ゲーリングがゲシュタポ(秘密警察、ゲハイメ・シュターツ・ポリツァイ)を設置。1934/4/20にヒムラーがゲーリングから管轄権を委譲されてから、戦慄すべき国家機関に変貌を遂げる。

1934/1/14
ドイツ、社会的不適正者子孫断絶法(断種法)を施行。

1934/6/30
ドイツ、エルンスト・レームらSA(突撃隊)の幹部らが粛清。
長いナイフの夜事件。

1934/8/2
ドイツ、ヒンデンブルク大統領が死去。その前日に成立されたドイツ国家 元首法の発行によりヒトラー、大統領・首相を兼任。

1935/3/16
ドイツ、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項を破棄し再軍備化を宣言 (ドイツ国防軍編成法)。
国民徴兵制の復活、空軍の保有を明らかにする。

1935/9/15
ドイツ、ドイツ国公民法、ドイツ人の血液及びドイツ人の名誉保護に関する法律、ドイツ国国旗法(三法を通称ニュルンベルク法)を可決。
猶太人の絶滅作戦の対象となる合法的な手がかりを作り出す。
鍵十字(ハーケンクロイツ)が国旗に制定。

1936/3/7
ドイツ、2/27日に成立した仏ソ相互援助条約を「ロカルノ条約」違反としドイツ軍ラインラント非武装地帯に進駐。ライン河を渡り、同地を再占領。
ヴェルサイユ条約及びロカルノ条約を破棄。

1936/7/17
スペイン、フランコ将軍を中心とした軍部による内乱勃発。
フランコの緊急援助要請を受けドイツ、コンドル軍団を派遣。

1940/4/18
強制収容所建設委員会、ポーランドのアウシュビィッツに、強制収容所を建設することを決定して、ヒムラーに視察報告を提出。

1940/4/27
ドイツ、ヒムラー、ポーランドのオシフィエンチム
(ドイツ名はアウシュビィッツ)の湿地に「アウシュビィッツ強制収容所」 建設命令。

1940/4/30
ポーランドのウーチに最初の猶太人ゲットーが設置される。

1940/5/4
ルードルフ・ヘス、アウシュビィッツに強制収容所所長任命。
※ルードルフ・ヘスSS大尉1934年親衛隊に入隊し、ダッハウ強制収容所で働き、38年にはザクセンハウゼンの強制収容所に移る。
その管理能力が認められてアウシュビィッツ強制収容所所長(1940〜1943年)に就任。その能率的な囚人殺害で有名となる。
猶太人処理のチクロンBガスも最初に使用した。
業績が認められてSS財務・管理本部D局(強制収容所統監府) 政治部長(1943〜1945年)に昇進する。
戦後、ポーランド最高人民裁判所により絞首刑の判決(1947年)を受け、1947/4/16アウシュビィッツで処刑される。

1940/5/20
アウシュビィッツ強制収容所にドイツ人刑事犯30人が、囚人の監督 「カポ」として送り込まれる。
収容所管理体制の一環。
※カポ(kapo)
語源は諸説有るが、現在では強制収容所における囚人による囚人支配の代名詞。管理・監督はドイツ人SS作業係官の指揮下にあったが、実際の運営はカポに委ねられて自主管理的に運営された。
カポはSSの管理官に万全の責任を負い、作業成果などが全うされる限りでは、強制収容所での各種の特権を享受できた。

1940/5/21〜6/8
東プロセインのゾルダウ精神病院で1558人の患者を安楽死処理。
ドイツ国内「T4作戦」実施結果。

1940/6/4
ハンブルク郊外にノイエンガンメ強制収容所が開設(当初はザクスハウゼン強制収容所の分所として機能)。1945の撤収までに合計10万5000人を収容し、約5万5000人を処理した。

1940/6/14
アウシュビィッツ強制収容所に728人の非猶太人のポーランド人政治犯がタルノウ(タルタフ)から初めて移送される。
※アウシュビィッツ収容所はポーランドのオシフィエンチム(ドイツ名アウシュビィッツ)に開設され、NSDAPの強制収容所の中でも最も規模が大きく、最も高度に組織された収容所である。
親衛隊のどくろ部隊員6000名の監視隊員が駐在した。アウシュビィッツは三つの収容所に分類される。
第一強制収容所(通常、アウシュビィッツ)、第二強制収容所が絶滅を目的にした「ビルケナウ」である。第三強制収容所が奴隷労働で工場稼動を担う「ブーナ」(モノヴィッツ)である。

1940/9/23
「石鹸製品及び各般の洗剤消毒統制に関する命令」布告。
ヒムラー、強制収容所で死亡した囚人から金歯を集めるよう命令(ブレスラウ大学の大学院生の博士論文「死体の口から取った金の再利用の可能性について」がヒント)。1942/11月、強制収容所から最初に運び込まれた金歯が、ライヒスバンクに届く。

1940/10/1
ゲシュタポ、デンマーク在住の猶太人500人を新設したチェコのテレージエンシュタットのゲットーに強制移送。本収容所は、後、アウシュヴィッツなどへの中継強制収容所として著名になる。

1941/1/2
ヒムラーの命令で、ハイドリヒ国家保安本部長官、強制収容所を三種類、労働・強制収容所 (軽罪で矯正可能)、絶滅・収容所、中間の強制収容所(重罪だが矯正可能)に分類。

1941/2/18
ゲーリング、強制収容者をアウシュビィッツの合成ゴム(ブーナ)工場建設に労働力として投入するよう命令。

1941/3/1
ハインリンヒ・ヒムラー、親衛隊長官、アウシュビィッツ強制収容所を視察、大拡張を命令。
これまでの基幹収容所を三万人収容に拡大する。新たにビルケナウの地にはソ連捕虜10万人を収容予定のアウシュビィッツ第二強制収容所を建設し、アウシュビィッツ一大軍事生産基地にする構想を語る。
※1943年の最高時には14万人を収容し、ガス室と死体焼却炉を持った絶滅センター になった。アウシュビィッツの「絶滅収容所」とは、このビルケナウを指す。基幹のアウシュビィッツ強制収容所は、死体焼却炉もあったが強制労働が主目的であった。

1941/7/16
ヘップナーSS少佐、ゲシュタポの猶太人問題の専門家「猶太人移送局」長官
アイヒマンに猶太問題解決案の手紙を送付。
手紙の内容:「今年の冬は猶太人全員にもう食料がいきわたらない危険性が有る。
労働につけない猶太人を何か即効的な手段で始末するのが、最も人道的な解決なのではないかと真剣に考えるべきである。ともかく、この方が彼らを餓死させるよりも気分が良い。」

1941年7/28
アウシュビィッツ強制収容所で、最初の選別が行われる。選別された575人は、ゾンネシュタインにある「安楽死センター」へ移送されて自動車の排ガスで処理される。

1941/7/31
ゲーリング、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒに猶太人問題の「最終的解決」の委任指令。

1941/8/24
ヒトラー、カトリック教会の非難を浴び、「T4作戦」を正式に中止。ベルンベルクの絶滅センターでの毒ガスによる精神病患者の殺害を中止し、引き続き他の絶滅センターでも中止する。
しかし、ひそかに不治の病の病人の抹殺(廃疾作戦)は継続。

1941/9/3
アウシュヴィッツ強制収容所でガス虐殺テストがソ連兵捕虜250人に実施される。
毒ガス製造のI・G・ファルベン会社、「チクロンB」のガス販売で1941〜1944年のみで30万マルクの利益。
※チクロンBは1919年に害虫に対する消毒剤、駆虫剤として開発され、23年または24年から製造されてきた。粒の状態でブリキ缶に密閉された青酸製剤チクロンBの成分は液体酸素であった。容器の中で三ヶ月変質したため、長期保存はできなかった。
強制収容所内では、消毒や駆虫にも使用された。
この製造、販売権を持つのはフランクフルト・アム・マインに本拠を置く「ドイツ害虫駆除会社」(現存)、その所有者は「I・G・ファルベン会社」で42.5%の出資であった。尚、「ドイツ害虫駆除」 は子会社数社に委託製造をさせていた。

1941/9/16
ブーヘンヴァルト強制収容所に300人のソ連将校とコミサールが到着。
ただちに銃殺される。

1941/10/4
アウシュビィッツ第二強制収容所(ビルケナウ強制収容所)の建設が始まる。
収容予定数20万人。
ビルケナウには、ガス室が四室有り、どのガス室もシャワー室と似た作りで、一日に6000人を殺す能力があった。

1941/10/8〜10
東部戦線のソ連兵捕虜約一万人、アウシュビィッツへ送られる。1942年2月までに、8320を処理する。

1941/10/20
ドイツの猶太人に対して、ポーランドのウーチ・ゲットーへの最初の集団強制移送命令。

1941/11/9
アドルフ・アイヒマン、親衛隊大隊長に就任。
※親衛隊元中佐で猶太人問題の専門家。当初は猶太人を欧州から追放する手段として 猶太人のシオニズム運動にも協力するが、これが不可能になると、猶太人の逮捕、移送、虐殺に関する各NSDAP機関との調整責任者として有能な役目を果たす。
戦後、アルゼンチンのブエノスアイレスに逃亡し、偽名リカルドでベンツ工場に 働き生活するが、イスラエル特務機関(モサド)に察知され、1960/5/11日午後七時、帰宅途中に秘密裏に拉致されてイスラエルに連行されて裁判にかけられる。
最後まで無罪を主張するも、1962/5/31日午後11:58分に絞首刑になった。

1941/11/18
ローゼンベルク、ドイツ報道関係者の代表者たちに極秘を条件に大規模な再移住計画と、猶太人問題の最終的解決を発表。

1941/11/24
ハイドリヒ、プラハから60キロの町テレージエンシュタットに、本格的な 猶太人強制絶滅収容所を完成させる。同収容所経由で、14万人が 絶滅キャンプに移送される。

1941/12/7
ヒトラー、国防軍最高司令部(OKW)長官カイテルに、占領下のフランスで 危険分子を裁判無しで拘留せよとの特別命令、暗号名NN作戦(夜と霧) を指令。
※「非ドイツ国民で占領軍に対する犯罪容疑者は、夜間秘密裏に捕縛して強制収容所におくり、その安否や居所を家族親戚にも 知らせないとするもので、後には、さらにこれが家族ぐるみ一夜にして消え失せた。これが「夜と霧」命令であって…………。

1941/12/8
ドイツ人により、ポーランドに強制移住で作らされた猶太人の 「ハイデンミューレ農業入植地」の住民約500人が、ヘウムノ強制収容所に再度強制移送される。
ポーランドのボズナン近郊の村ヘウムノにある「ヘウムノ絶滅強制収容所」で移動式ガス・トラックを使った猶太人処分が始まる(アウシュヴィッツとベウシュビィッツでガス室を建設)。32万の猶太人を処理。
収容所はSSの証拠隠滅作戦で1944年9月に完全に解体される。

1941/12/10
ヒムラー、強制収容所の収容者のうち、労働に不適な者、病人、もしくは精神障害者を除くように指令を出す。

1942/1/13
ウーチからヘウムノ絶滅収容所に送り込まれたジプシー5000人がガスで処理される。

1942/1/20
ハイドリヒSS大将の主催、ヴァンゼー会議(ABGHI)により「猶太人の絶滅計画」を決議する。

1942/1/31
チェコのテレージエンシュタット強制収容所へ第一陣の猶太人が移送される。

1942/2/3
ワルシャワのゲットーからアウシュビィッツ絶滅収容所への移送開始。

1942/3/6
アイヒマン議長、猶太人問題「最終解決」の第二回会議を招集。この会議には 宣伝省からも二名が初めて派遣された(混血児、特に猶太人との結婚の問題が討議の目的)

1942/3/17
ヒムラー、収容所の管理系統の編成し直しを命令。強制収容所監督府(従来、名目上はSS本部が統括し、強制収容所総監テオドール・アイケが責任者で あったが、アイケが武装SSに転出し、後任のリヒャルト・グリュックはSS作戦本部 の指揮下に入った)を、「経済管理本部(WVHA)」(長官オズヴァルト・ポールSS大将)の五局の一つ「D局」(強制収容所)に移動する。WVHAは強制収容所の管理、SSどくろ部隊の管轄(実戦ではハンス・ユットナー長官のSS作戦本部の指揮下に入る)、 武装SSの装備、強制収容所・建築・土木・二九六の企業体の管轄、などを担当。
WVHAのポールとスタッフは、1943年3月には、猶太人の労働力を利用する「東方産業会社」を設立する。こうした猶太人労働力利用方針は労働力需要増大に伴い確固たる地位を築くことになり、同列のSS国家保安本部(RSHA)の猶太人絶滅 作戦担当者との内部抗争に発展する。なお、ポール将軍は51年6月8日にランツベルクで絞首刑になる。

1942/3/17
ワルシャワ東南150キロのルブリンのベウジェツ村に完成したベウジェツ絶滅強制収容所(ルブリン絶滅収容所)が稼動。
小規模ながら、作業能率は高く、12月に稼動中止までに55万人をガス室で処理する。43年3月までは死体焼却作業が続くが、後、解体して痕跡は消滅する。

1942/3/23
アウシュビィッツのビルケナウ絶滅収容所にスロヴァキアの猶太人移送開始される。

1943/3/26
アウシュビィッツ強制収容所に新しく完成した女子専用収容所に、999人のドイツ人とスロヴァキア地方の猶太人999人が収容された。

1943/3/27
フランスから、最初の猶太人の移送開始。移送列車は、午後五時にパリ・コンピエーヌ駅を出発。翌日28日、午後1時59分にドイツ国境に到着、アウシュヴィッツ着は3月31日の午前5時33分。

1942/4
アウシュビィッツ強制収容所内で発疹チフスの死者2192人(5月には2982人、6月には3688人と増加)。この頃から、チクロンB使用による毒ガス処理が大々的に行われる。

1942/5/4
アウシュビィッツ強制収容所のガス室の稼動が開始される。

1942/5
ポーランド東部のルブリン市から二キロ離れたマイダネック強制収容所(当初は 1941年秋に設置されたソ連軍の捕虜収容所)にガス室が完成。

1942/5/17
ポーランド、ソビブル絶滅強制収容所が開設。

1942/5/30
クラウベルク博士、「アウシュビィッツ強制収容所で行う不妊のための人体実験」の 計画書を提出。

1942/6
ポーランドのヴァィセクル(ヴィスワ)川支流、ポーク川沿いのトレブリンカに 「絶滅強制収容所トレブリンカ」が開設される。アウシュビィッツ強制収容所では最初の大量ガス処理が始まる。

1942/6/10
アウシュビィッツ強制収容所で50人ほどが暴動に失敗。
約340人が拷問後に処刑される。

1942/7/1
ヒムラー、アウシュビィッツ強制収容所を視察、新しいガス室の設置を指示。

19427/4
アウシュビィッツ強制収容所で、SSの医師による「選別」が荷降場(ランプ)で新規到着者に実行されるようになる。
※移送されて来た猶太人を停車した荷降場(ランプ)で労働能力の有無により生死の選別が行われる。まず男女が分離されて、労働可能な者の左側に対して、働く能力無しと判別された者(幼児を抱えた女性、病弱そうな男性など)は右側に並ばされて、ただちにガス室に送られた。当初、 「選別」は猶太人のみを対象にしており、非猶太人は原則として全員強制収容所に収容された。

1942/7/7
アウシュビィッツ強制収容所で「不妊法の実験」の為の会議。
担当はクラウベルク博士。

1942/7/17〜18
ヒムラー、アウシュビィッツ強制収容所を二度目の視察。ガス室での処理を確認。ビルケナウ(アウシュビィッツ第二強制収容所工場)の拡張を指示。ヘス所長をSS中佐に昇進させる。

1942/7/23
完成したポーランド・トレンブリカ絶滅強制収容所に、約120キロ離れたワルシャワ・ゲットーから猶太人5000人を乗せた一番列車が到着する。
輸送量は毎日5000〜7000人。ここでは約85万人の猶太人が ガス室で処理された。
※トレンブリカはNASDAPの猶太人問題の最終解決としての処理だけを目的にした猶太人絶滅収容所で、労働の強要はなく老若男女の別なく到着列車からガス室に直行させられた。特にワルシャワ・ゲットーの猶太人 絶滅が主目的とされた。巨大な強制収容所を稼動させるために 約700人〜1000人程度のの猶太人が収容所ないの労働囚人として
生かされていた。
1943年8月2日、彼らは(約700人)は極限状態の中で組織して絶望的な叛乱行動を起こした。脱獄に成功したのは、わずか12人だった。
叛乱後、トレンブリカ強制収容所は閉鎖となり徹底的に破壊され、地面は耕され平地となった。この事件はトレンブリカ絶滅収容所の叛乱として 有名である。
殺害だけを目的とした強制収容所はポーランド領内の主な鉄道路線に沿って建設されたトレンブリカ、ソビボル、ベウジッツ、ヘウムノ、アウシュビィッツ第二 収容所=ビルケナウ、マイダネクの各収容所施設である。ビルケナウとマイダネクは奴隷労働と懲罰の収容所の機能も果たした。
NSDAP占領下の欧州諸国には9000以上の収容所ができたが、その中には移送、捕虜、企業付属、労働教育、外国労働者、警察留置、子供専用などの各種の収容所が存在した。

1942/9/18
1944年8月31日の開放までにアルザス地方に作られた「ナットッヴァイラー強制収容所」で2万5000人が死亡。

1942/9/25
SSの経済管理本部長官オズヴァルト・ポール大将及びその幕僚がアウシュビィッツ強制収容所を視察。

1942/9/29
ヒムラー、「ラーフェンスブリュック女子収容所」内の猶太人全員をアウシュビィッツの「ビルケナウ絶滅強制収容所」に転送を命令。

1942/10/5
ヒムラー、ドイツ国内の強制収容所の全猶太人の、ポーランドのアウシュビィッツ強制収容所への移送を命令。

1942/10
オズヴァルト・ポールSS経済管理本部(WVHA)局長の新政策である労働力搾取による絶滅方針から、ポーランドのモノヴィッツに 「労働収容所」が建設される。後のアウシュビィッツ第三収容所でシュヴァルツSS大尉の指揮下に、収容者の奴隷労働力を軍需産業に役立てる。ドイツ超巨大企業のI・G・ファルベン社(合成ゴム工場) クルップ社、ジーメンス社などが積極的に活用する。

1942/10/27
アイヒマンSS中佐が議長で、猶太人「最終的な解決」の為の第三回の会議召集。

1942/12/28
ポール長官のSS経済管理本部(WVHA)、強制収容所第一医務官 に「このような効率の死亡ではSS全国指導者の命令である囚人数が確保(労働力確保)されない。あらゆる手段を講じて死亡率を低下させるべき」と命令。

1943/1/9
ヒムラー、ワルシャワ・ゲットーを訪れ、2月15日までにゲットー解体と8000人の猶太人の移送を命令(トレブリンカ絶滅収容所に 送られた)。

1943/3/13
アウシュビィッツで新型焼却炉の稼動開始。

1943/3/22
アウシュビィッツ「ビルケナウ強制収容所」に第四焼却炉が完成する。
焼却炉はエアフルト・トプフ・ゼーネ社の最新鋭機。

1943/3/30
死の天使として知られるようになるヨーゼフ・メンゲレ医師(SS大尉)がアウシュビィッツに着任。
1943年11月に、メンゲレはアウシュビィッツ第二収容所「ビルケナウ強制収容所」の主任医師になる。
※メンゲレはSS大尉で医学博士。アウシュビィッツに到着した収容者たちのガス室行きと労働収容棟への生死の選別をする医師のリーダーであり、遺伝学的な双生児研究などにも熱中していて、恐ろしい生体実験を行い、「死の天使」と呼ばれた。
戦後、猶太人当局の必死の追及を逃れて生死不明であったが、ブラジル連邦警察は1985年6月6日、アウシュビィッツ強制収容所の元医師でNSDAPの大物戦犯メンゲレと見られる男の遺体をサンパウロ近郊の町エンプの墓地から発掘したと発表した。
男の遺体は1979年2月に水死したオーストリア国籍の「ヴォルフガング・ゲルハルト」の名前で埋葬されていた。

1943/3/31
アウシュビィッツの「ビルケナウ強制収容所」に第二焼却場が完成する。

1943/4/4
アウシュビィッツの「ビルケナウ強制収容所」に第五焼却場が完成する。

1943/4/20
ルードルフ・ヘス(アウシュビィッツ強制収容所所長)功績により第一級鉄十字勲章(帯剣付き)を授与されてSS中佐に昇格。

1943年/4
ハノーファー北方に「ベルゲン=ベルゼン強制収容所」が設置される。
分所四箇所からなり、主に中立国籍の猶太人を収容。各強制収容所 破壊の際には死の行進の目的地となり、所内に飢餓状態を生み出す。
1945年4月15日に英国に開放される。

1943/6/5
オランダから、16歳未満の子供1266人が「ソビボル強制収容所」へ送られてガス室で処理される。

1943/6/7
ヒムラー、アウシュビィッツで行われた婦人科医カール・クラウベルク博士の「不妊実験に関する報告書(一日で約1000人の処理が可能)」を受け取る。

1943/6/25
アウシュビィッツの「ビルケナウ強制収容所」に第三焼却場が完成。

1943/6/27
フランス最初の大規模な移送列車が「ブーヘンヴァルト強制収容所」に到着。

1943/8/2
「絶滅収容所トレブリカ」で特務班の猶太人達が計画蜂起する。約600人脱出するが、ほとんどが逮捕後に処分される。暴動後、収容所は痕跡無きまで完全に解体される。

1943/8/15
ダッハウ強制収容所で空軍軍医ジークムント・ラッシャー、キール大学の心理学者エルンスト・ホルツレーナ教授と協力して、300人のソ連軍囚人に「水中冷却の予防と治療」の実験と称して人体冷却実験を始める。
この実験結果は、今日も国際的専門誌に引用される(1942年3月にはラッシャーはヒムラーの許可を得て、ソ連軍捕虜を使って、超高度で人間が耐えられる限度の実験も行っている。)。

1943/11/3〜4
ポーランド東部のルブリン市からわずか二キロ離れた「マイダネック絶滅強制収容所」 (1943年にはSSは正式名称として、「ルブリン絶滅収容所」と定めた)で「収穫作戦」が 実施され、猶太人約5000人が射殺される。ヒムラー、猶太人の抵抗蜂起の再発防止から、SS支配下(軍部企業や大企業支配下の労働力となる猶太人は対象外)の猶太人の絶滅を決断する。

1943/11/11
ルードルフ・ヘス、SS経済管理本部DI部の業務担当に任命。後任のアウシュビィッツ強制収容所所長は、元DI部長リーベヘンシェル。

1943/11/22
アウシュビィッツ強制収容所所長は、統一指導が出来ないほどに巨大化したアウシュビィッツを「アウシュビィッツ」第一基幹収容所(所長本人が管理)第二収容所「ビルケナウ」所長ハルチェンシュタイン、第三収容所「モノヴィッツ」所長シュヴァルツに運営を分割する。
1945年1月15日現在、収容所を管理するSS職員総数は4552名(内女性は71名)に及ぶ。

1943/12/20
テレージエンシュタットのゲットーから家族4962人をアウシュビィッツ「ビルケナウ絶滅収容所」に移送収容。

1944/3/20
マイダネック絶滅収容所を撤収(病弱者はアウシュビィッツで処理、残りはグロス・ローゼン強制収容所に、女性は女性専用のラーフェンスブリュック強制収容所に)

1944/5/9
アウシュビィッツ基幹(第一)強制収容所所長リーベンヘンシェル、囚人に好意的な 姿勢からルブリン(マイダネック)強制収容所に更迭される。ヘスが暫定的な全体の所長に任命された。5月11日に経済管理部のベアが就任、アウシュビィッツ第二収容所(ビルケナウ)所長にはクラーマーが就任。

1944/5/16
チェコのテレージエンシュタット収容所から猶太人家族7449人を「ビルケナウ絶滅収容所」に移送。

1944/7/31
ビルケナウの「ジプシー収容所」が、絶滅完了で解体。NSDAPにより欧州のジプシーは50%処分される。

1944/8/20
アウシュビィッツの軍需工場である第三強制収容所(モノヴィッツ)に対し、徹底的な爆撃が開始される(しかし、基幹収容所である第一強制収容所と、絶滅収容所である第二は爆撃対象にされず放置される)。

1944/10/7
アウシュビィッツ・ビルケナウ絶滅収容所で猶太人特務班の囚人が武装蜂起するが脱走に失敗し、455名が処刑される。

1944/11/25
アウシュビィッツ第一・第二収容所は全て統合されて、「アウシュビィッツ強制収容所」となり、第三収容所は「モノヴィッツ強制収容所」と改名。
ヒムラー、アウシュビィッツの焼却炉の破壊を命令。

1944/11/28
アウシュビィッツで、最後のガス虐殺が行われる。残存者は、列車でドイツ国内の各強制収容所と労働キャンプに送られた。

1945/1/17
夕刻、アウシュビィッツ強制収容所で最後の点呼が行われる。
アウシュビィッツ収容所本体の囚人3万1894人、モノヴィッツ収容所と付属収容所の囚人3万5118人。

1945/1/18
アウシュビィッツ強制収容所から「死の行進」の撤退が始まる。
「マハトハウゼン強制収容所」などへの徒歩の行進で約50%の囚人が倒れた。

1945/1/20
アウシュビィッツ強制収容所の第二死体焼却炉と第三死体焼却炉の残部が爆破される。

1945/1/26〜27
アウシュビィッツの最後の第五死体焼却炉が爆破される。

1945/1/27
午後、ソ連軍第一ウクライナ戦線の第六十師団がアウシュビィッツ強制収容所を解放。約7000人が解放されてしまう。

1945/4/11
午後3時15分、米国軍、ヴァイマル市郊外の「ブーヘンヴァルト強制収容所」を解放してしまう。

1945/4/15
英国軍、「ベルゲン・ベルゼン強制収容所」を解放してしまう。
所長のヨーゼフ・クライマーは45年12月に処刑。

1945/4/19〜25
「ラーヴェンスブリュク」女性専用と「ザクセンハウゼン」男性専用の強制収容所 から女子1万7000人と男子4万人の徒歩による死の行進が始まる。

1945/4/29
米国軍の日本人二世部隊第四四二連隊の第五二二野砲部隊が 「ダッハウ強制収容所」を解放してしまう。

1945/5/7
ドイツ、無条件降伏。

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